琉球王国

沖縄県琉球王国という独立した国で1429年から1879年の間に存在した 。1429年以前の琉球王国沖縄本島は中山(英祖王)、北山(怕尼芝)、南山(承察度)という3つの勢力が争っていて、三山時代と呼ばれています。このうち、中山が北山と南山を征服し、沖縄本島を統一しました。
 この沖縄本島を統一した中山の尚巴志(しょうはし)という王が中国の明の皇帝(朱 元璋)から冊封を受けます。この冊封により、琉球という王国名と琉球王という爵位と尚という名字を賜ります。
 つまり、琉球王国の生みの親です。元々、琉球とは明側の今の台湾(中華民国)と沖縄県周辺の呼び名であり、そのまま琉球王国と名付けられたのでした。これが琉球王国の名前の由来です。
 江戸時代になると、薩摩藩琉球支配を強化するために、強硬な手段に出ます。
 1609年に薩摩藩の島津氏が、平和な国で明との威光による貿易を盛んに行動する琉球王国に腹を立て、琉球との貿易利権の独占を狙い、琉球王国に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求。王国側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあった。
 1609年3月初旬、薩摩軍は約3000人の兵と100隻の軍船により、琉球に進攻した。鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を次々と攻略し、3月25日、沖縄本島北部・運天港に上陸し、27日には今帰仁城を陥落させた。3月29日、読谷に到着した薩摩軍は、陸路と海路から、4月1日には那覇首里に到着した。琉球軍も抵抗したが、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力を持つ薩摩軍を相手になす術もなく、4月5日、琉球国王・尚寧が降伏を申し入れ、首里城は占拠された。5月15日、尚寧以下重職にあった者達は薩摩に連行され、翌年の1610年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見した。
 これにより琉球王国は、 薩摩藩に従属させられ、その後、明治になって、吸収合併される形で日本となり、琉球藩を経て、廃藩置県により沖縄県となりました。
 明治5年(1872)、大蔵大輔の井上馨が、琉球国の領地と人民を日本政府のものにするという建議を日本政府に出し、これが通ります。こうしていわゆる「琉球処分」が行われ、外国との直接交渉は禁止、琉球国王尚泰藩知事となり、ほかの大名と同じ扱いになっていくのです。結果、琉球国王は君主としての立場は失われ、家系は日本の華族として継続することになりました。
 さらに、明治12年(1879)になると、日本政府が軍隊300名余と、警官160余名を派遣して首里城に入城、城を明け渡させて、廃藩置県を布告します。このような強制的な形で、明治27年(1894)に日清戦争が勃発、日本が勝って台湾の割譲に成功します。台湾が日本の領土になる以上は、その間の琉球奄美諸島など南西諸島はもちろん日本の領土ということになったわけです。 琉球は日本の領土になるのです。
沖縄という名前。これは、薩摩藩が沖に出て大漁に魚が取れることから、最初は、「沖網」でしたが、あまりにも違和感があるため「沖縄」に命名したのである。いずれにせよ、薩摩藩が勝手に名付けた名前です。